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マンスリーゾディアックとは 日本語で言えば「毎月の12星座」です。

太陽の通り道「黄道」 そこには12個の星座が配置させていおり、毎月30度ずつ進んでおります。それを「黄道12宮」と言います。

そこの場所を太陽が通過するとき、「○○座」という表現になります。 (私の誕生日は○○座) マンスリーゾディアックでは毎月の太陽星座を見つつ、その星座に隠れている「教科書には書かれていない星座の事」をピックアップしてまいります。 どうぞお楽しみに☆

 

第6回【乙女座について】

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■乙女座は線をひいて“境内”を祓い清める

乙女座(処女宮)は、その名称から連想されるイメージと実態が大きくかけ離れていることで名高い星座です。一見どこかしら清潔感や品のよさが漂っている控えめなタイプが多いため、周囲の人もついつい彼らの内面もまた、はかなげで頼りなく、瞳を潤ませているに違いないと、少女マンガちっくなイメージを投影して付き合ってしまいがち。乙女座は期待された役割にはなるべく忠実に応えようとしますから、最初こそ合わせてくれますが、いつまでもそんな甘い期待を抱いていると、彼らがふとした瞬間に見せるシビアさや毒舌に面を食らってしまったり、時にピシャリと手厳しくあしらわれてしまうことになりかねないでしょう。

こうした乙女座のギャップは、たとえば本来は神殿に仕える巫女(神殿娼婦)であり、「男性に依存していない女性」を意味する「処女」という言葉を、単に「性的に未熟で、セックスを経験していない(ように見える)女性」とミスリードすることによる誤解に過ぎないのですが、中には、そうした彼らのギャップを受けて「なんだか騙された気分だな」などとネガティブな判断を下してしまう人もいるかも知れません。

ただ、ちょっと待ってください。彼ら乙女座は、なぜ先に挙げたような振る舞いを見せるのでしょうか?あるいは、本当に乙女座は“イメージと実態が大きくかけ離れている”のでしょうか?そして本来の乙女=処女=神殿娼婦の在り様とは?以下、そうした疑問を掘り下げつつ、非常に深みのある乙女座の実存にすこしでも触れていきたいと思います。

まず、牡羊座から数えて6番目の星座である乙女座は、個人的なテーマを扱うゾディアックの前半6星座の最後の星座です。激しくいのちを燃え上がらせる火の星座の後には、必ず抑制的な土の星座がくるのですが、乙女座の場合、それに加えてこの世に生れ落ちた人間が「個」として完成するための“調整”をおこなっていく役割を担っている、という点に留意していく必要があるでしょう。

獅子座特有の、大胆でドラマチックな自己発見のプロセスは、例えるなら、誕生日パーティーの当日を迎えた子どもが、笑顔をくしゃくしゃにしながらプレゼントの包装をびりびりに破き、テーブルの下に落ちる食べカスをものともせずに、ケーキにむしゃぶりつくさまに重ねることができます。それは一つの祝祭であり、遊びであり、生命力の発露でもありました。が、獅子座を含め既にそのパーティーに参加している彼ら(牡羊・牡牛・双子・蟹)には、その後始末をすることはできません。

なぜなら、牡羊座から獅子座までの5星座は、あくまで個人的な星座であり、自らの衝動に本能的に従うことが最優先だから。そもそも、乙女座以前には「後始末」という発想自体がないんです。思い付きによる企画(牡羊)から始まり、しっかりとしたこだわり(牡牛)と、遊び心と意見交換(双子)、そして思いやりによって場を整えられ(蟹)、最後に獅子のバズーカで打ち上げられる(獅子)。こうした一連のパーティーの進行は、各星座の引き出しから彼らの内実が表現され、人間の持つ個人的衝動のすべてを棚卸ししていくプロセスでもありました。乙女座というのは、そうして外へと引っ張り出され、乱雑に放置されたままになっている様々な人間の衝動群の不調和とデメリットに初めて気が付く星座なんです。(やれやれ) 「確かに賑やかではあるけれど、しっちゃかめっちゃかで、どこに何があるかちっとも分からない。これじゃリスクだらけだし、誰の役にも立たないじゃないか」、と。

そう呟くとき、乙女座は村上春樹が『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼んだような、自身の役割について、おぼろげながら感知しているのかも知れません。誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困る。そんなことを思いつつ、どんどんふくれあがっていく人間衝動の不調和を前に、それが致命的な破綻となって大切な守るべきものを破壊してしまわないよう、そろそろ仕事に手をつけねばと。

まず散らかってしまった部屋(内面)を見渡し、「線をひく」ことから作業は始まります。ゴミとプレゼント、消耗品と常備品を見分け、優先順位とタイムスケジュールを設定し、一様にカオスだった空間をプリズムのように複数のレイヤーに切り分けていく。そしてまとめあげたTo Doをダブルチェックしつつ、ていねいに整理と分類を重ね、あるべき均衡を一時でも部屋内に取り戻させる。時にそれは仕事の納期を守ることだったり、生活の基本である衣食住を見直すこと、言葉遣いを丁寧すること、あるいは出掛ける前にアイロンをきちんとかける、というささやかな習慣である場合もあるでしょう。そうやって乙女座は、そのままでは絶えず危うさと不安定さに晒され、揺らぎ、崩れてしまいがちな日常やそこで働く意識にサッと線をひき、それら一つひとつを儀式化することによって、ぼやけた日々の輪郭を更新し続けるんですね。

こうした乙女座の奉仕性は、蟹座特有の「世話焼き」と一見似ているようにも思えますが、実際には大きく異なります。乙女座の場合、その行動が「情と愛」にではなく「責任と義務」から発されており、さらに「心配と気遣い」ではなく「観察と効率化」によって為される点で、蟹座と比べるとずっとシビアなんです。先ほど「文化的雪かき」という言葉を使いましたが、「文化 culture 」という語自体も、もともと「地を耕して作物を育てる」という意味があるそうです。あやふやなものを追おうとするのではなく、あくまで具体的な現実のディティールにこだわって、心ではなく生活をこそ耕そうとする。そんな(人間衝動が納まる)日常の儀式化としての文化を守っていくのが処女の務めであり、乙女座の“ディシプリン(規律であり鍛錬であり専門領域)”なのだと言えるでしょう。

そう、男に依存しない処女とは、自らの聖域と見立てた部屋-耕作地の境界線上に目を凝らし、その内側が穢れてしまわないよう、境内を日々綺麗に祓い清める巫女であり、村上春樹風に言えば「センチネル(歩哨)」(『1973年のピンボール』)でもあるんですね。それゆえ、乙女座は怠惰さや無視を嫌い、行為(土)を重視し、厳しくリアリズム(土)の世界に生きようとして、誰よりもそのディティールに気を配り、不穏なもの・邪悪なものの気配を感知しては、それが「神聖な境内を侵す行為」と判断されたとき、迷うことなく“後始末”する訳です。

その姿はもはや“処女”というより逞しいアマゾネスのようでさえありますが、ここで大切なのは、そうやって保持され行使される硬質なディシプリンによって、彼等彼女等が立ち上がらせ呼び込まんとする何かがあるのだということ。結局のところ、私たちは乙女座のそうした姿勢の一面だけを見て、処女性や清潔感を感じているに過ぎず、だからこそここでは、それが何のための“所作”なのかを問わなければなりません。

では、そうまでして処女=巫女が守ろうとしている大切なものとは一体何でしょうか? 恐らくそれは、乙女座がいちばん恐れているものが何なのか?ということを考えていけば、自ずと見えてくるはず。以下、その点を踏まえつつ、話を進めていきたいと思います。

■鏡に自分を映し、窓をあけていくこと

毒舌で知られる乙女座ですが、それさえも穢れを祓わんとする巫女の鋭い観察眼と潔癖なまでの理想主義によってもたらされているということを、私たちは先に確認しました。磨き上げたディシプリンから外れている、あってはならないと判断されたもの(穢れ)を、あくまでドライに徹底して糾弾しようとするその姿は、義憤に駆られた正義の女神アストライアそのものですが、そうした鋭さや徹底性というのは、時に他人や自分さえも深く傷つけてしまう、諸刃の剣にもなりかねません。

乙女座は双子座と同じく、水星に支配された知性の星座ですが、既知の情報でもどんどん掛け合わせては膨らませていく双子座と異なり、乙女座の働きはあくまで「減点法」なんです。細かく的確な分析的知性は、ソースから事実factを見抜き、無駄なく組織化することに長けている一方、悪く出てしまった場合、その対象を自分のディシプリンやカテゴリーの枠内に押し込め、「しょせん○○にすぎない」「やっぱり○○タイプだから」「結局単なる○○コンプレックス」などと斬って捨てる批評癖(わかったつもり)になってしまう。そして、自らの言葉に縛られて自分の生きる現実さえもちっぽけで窮屈な囲いの中に押し込んでしまい、自家中毒を起こしてしまうんですね。

これはちょうど古くはギリシャ神話に出てくる、孤島に女だけで住んで、目の敵にしていたギリシャ人と戦った激しく勇猛なアマゾネスの鏡映しの姿とも言えます。アマゾネス達は、男児が生まれると、足と腕を不自由にして、一生卑しい奴隷に落としたと言われていますが、これも象徴的ですね。つまり自分の手のひらに合うように相手や現実を不自然に切り落とし、歪めてコントロールしようとする。そこには、不可解なもの、割り切れないもの、コントロール不能なものが島内-部屋の中にあることに対する乙女座の根本的な恐れと、それを近視眼的に解決しようとした際に引き起こされる強迫的な依存衝動が垣間見えます。男を奴隷にするアマゾネスもまた自身を不自由にしているし、そのことさえ忘れてしまっている。(『超時空要塞マクロス』のゼントラーディ人みたいでもありますね)

先のアストライアには、人間が自ら(正義)を崇拝しなくなったことに絶望して山に引きこもった挙句、最後には見捨てて天に帰ったという逸話が残っていますが、どうもこの正義そして無邪気と純潔の女神であるアストライアというのは、ある意味で、アマゾネスと非常に近いか、表裏の関係にあるのではないかと考えています。いずれにせよ、おそらく身近な「不調和と戦う」という攻撃姿勢を取ることをやめない限り、アマゾネス達の戦いはいつまでも終わらないでしょう。では、乙女座がそうした「コントロールへの依存」から抜けるにはどうしたらいいのか?

それには乙女座を象徴するアイテムである「」をおくこと。そして自らの姿をそこに映し見ることにヒントがあるのではないかと思います。たとえば閻魔大王の鏡のように、古来より鏡は真実を映し出し虚偽を暴く「告発の鏡」でもありますし、何よりも「自己認識」の象徴でもありました。これはふだん「自分らしい」と思って慣れ親しんでいる鏡に映った自分の顔=「鏡像」と、いつも他者がみている自分の顔=「正像」とが違うというメタ的な視点を人間にもたらし、両者を調整するきっかけを与えてくれるという鏡の特性を考えてみるとピンとくるでしょうし、それがいかにも乙女座的だということも分かるでしょう。

生きていれば、時にセンチネルとして、アマゾネスとして戦うこともある。ただ、それは衝動や欲望といった暗い自我の波に巻き込まれ、嵌まりこんで袋小路に入ってしまうリスクでもあるんです。その際、いったん敵のいる境界線の外へと凝らしていた視線を内へと戻して、いま自分がどんな顔をしているのか、そして、どんな風に見せたいのか。改めて鏡を通して確認してみるということは、祓うべき穢れに自分が魅入られていないか、アラートを立てる意味でも、きわめて大切な“習慣”なんですね。 まさに、「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗く ならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」(『善悪の彼岸』)という訳です。

私たちは鏡をみるとき(特に女性が化粧をする時など)、必ず脳内に不特定多数の他者の視線を構築するのだと言われていますが、不特定多数の他者とは自分が属しているコミュニティー全体のことでもあり、無意識的な影響であったりもするでしょう。乙女座は、鏡を通じて、本当の意味で深淵をのぞき、自らの無意識の深層に巣食うものと出会うんです。一種の「地獄めぐり」を経ることが乙女座にとって大切な契機となるんですね。

そこで自身の醜い一面を見つけてギョっとすることもあれば、表情のどこかに不気味なエネルギーが宿っているのを感じることもあるはず。ただそれは、ぼんやりと待っているだけでは出遭える訳ではありません。自らを鏡の前に晒し、「ジョハリの窓」で言うところの盲点の窓(自分は気が付いてない&他人からは見られている自己)や秘密の窓(自分には分かっている&他人には見られていない自己)を受け入れ、再認識していくことで、未知の窓(誰からもまだ知られていない自己)をあけていく積極性を要求されるんですね。こうした、「本当は自分こそが自分自身のことを一番分かっていないのかも知れない」という問いこそが、乙女座にとって最も怖い問いであると同時に、最大のイニシエーションでもあり、儀式にもなりえるんです。

 

■窓をあけ、俳優は神と一体化する

「神は汝が自らを映し見る鏡である―汝が神の鏡であるように」イブン・アラビー

既に自覚し、他人からも知られている自己よりも、もっと偉大なものが自分の中に住んでいると感じるなら、その乙女座の人は、自らのイニシエーションを既に知っており、コントロールの依存から距離をおき、未知の窓をあけていると言えるでしょう。それは、自分自身という社の境内においた鏡を曇りなく磨き上げる乙女座のディシプリン(鍛錬)であり、人間が作り出さずにはいられない幻想(マーヤー)を祓う浄化のプロセスでもありました。

つまり、乙女座は「顔を化粧することは脳を化粧するということ」(茂木健一郎、『化粧する脳』)というところのものを、日々丹念に行っているのだとも言えます。さらに付け足して言えば、顔に宿る視線や無意識も、化粧という日々の営みの中に取り込んでいくこと、そしてメタ的視点に立った上で、日々具体的に顔を書き換えていくことによって、乙女座は次第に仮面を獲得し“神”に扮する「俳優」となる。いな、仮面と素顔のあいだに“神”を宿すようになります。それくらい、成熟した乙女座というのは、どんなにささやかな仮面―役回りであろうと、必ずどこかに「魔」と「神」を秘め併せた深みを漂わせているんです。翁であれ、中将であれ、般若であれ。そこには、その人が鏡と向き合い、自らの深層に巣食うものと顔をあわせてきた時間が正確に反映されている。つまり鏡を見るということは、すべて自らの窓をあけるための俳優としての修行であり、仕込みでもあったんですね。

ちなみに、ここでいっている”神”とは、人間に莫大な活力をもたらしてくれるエネルギーの総体のことです。そんな神を、乙女座は自らがつつがなく執り行う儀式を通じて迎え入れ、その分霊にあずかることによって、境内は清浄さを取り戻し、部屋には望んでいた秩序が呼び込まれていき、それは私たちが明日を生きる活力になるんです。儀式の中の儀式、この乙女座の密儀によってこそ、いうなればこの世の均衡は保たれ、回っている。穢れきらず、生きていられる。

いまのところ、現に世界にはまだあまねく秩序が保たれていますから、何よりもまずこの事実こそが、世界のどこかで「化粧した巫女-仮面をつけた俳優」たる乙女座たちが、いまこうしている間にもせっせと自らの職務を果たしてくれているという証左に他なりません。その透徹した無名の美意識に、私たちはもっともっと相応の賞賛と対価を与えていくべきでしょう。彼らは、三文役者を演じているかもしれない一流の俳優であったりもするのですから。

 

乙女座のKeyword:
処女=神殿娼婦=男性に依存していない女性
人間が「個」として完成するための“調整”を担う
人間の衝動群の不調和とデメリットに初めて気が付く星座

線を引くこと、文化的雪かき、掃除
日常の儀式化、奉仕、ディシプリンに忠実

「情と愛」にではなく「責任と義務」
「心配と気遣い」ではなく「観察と効率化」

ソースから事実factを見抜き、無駄なく組織化することに長けている分析的知性、減点法

勇猛なアマゾネス、無邪気で純潔なアストライア
センチネル(歩哨)、境内を祓い清める巫女
化粧し、仮面をかぶり、神を宿す俳優

鏡を通じて、自らの深淵をのぞき、無意識と出会う盲点の窓、秘密の窓を受けいれ、
未知の窓をあけること

三文役者を演じているかもしれない一流の俳優

 

 

sugerSugar(シュガー)
1983年7月31日生。慶應義塾大学哲学科卒業後、ベンチャー企業の営業職を経て、より多くの人に占星術の面白さを伝えるべく、占い師の道へ。現在、対面鑑定・講座・執筆などを中心に活動中。男性占い師ユニットNOT FOR SALEメンバー。

 

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