マンスリーゾディアック

 

マンスリーゾディアック星の見晴らしエンジェルメッセージ

 

連載コラム

星の見晴らしほしはな ちびぐるみ〜12星座の旅〜ハーバルアストロロジーお問い合わせ

エンジェルウィスパーネットショップASTERIDEA BLOG

マンスリーゾディアック

マンスリーゾディアック

マンスリーゾディアックとは 日本語で言えば「毎月の12星座」です。

太陽の通り道「黄道」 そこには12個の星座が配置させていおり、毎月30度ずつ進んでおります。それを「黄道12宮」と言います。

そこの場所を太陽が通過するとき、「○○座」という表現になります。 (私の誕生日は○○座) マンスリーゾディアックでは毎月の太陽星座を見つつ、その星座に隠れている「教科書には書かれていない星座の事」をピックアップしてまいります。 どうぞお楽しみに☆

 

第5回【獅子座について】

NOT FOR SALE Sugar

■獅子座は“咆哮”してわが子を覚醒させる

太陽をその守護星に持つ獅子座は、古来より「王」のシンボルを与えられてきました。とはいえ、それは権威主義的な枠組みの中で、確かな経験に裏打ちされた“成熟”の道を歩む「父なる王(山羊座)」 というより、天真爛漫な「子ども(神の子)」と言った方が適切でしょう。歩む道のりの峻厳さへの裏返しとしての選民意識や義務感ではなく、ただただ喜びを源泉とした楽観と熱狂の感覚に生きているのが獅子座の特徴であり、そこには「」とも「」とも判別がつかないような、ただ「俗」のケガレを祓うという点においてのみ「王」たる所以とされるような、微妙な危うささえ感じられるはず。

このように、獅子座はしばしばエゴイスティックで傲慢な「暴君」などと言われることがありますが、その本質は、いわゆる父権的で専制君主的な「王」のイメージの延長にあるものとは明らかに異なっています。以下、そんな意外と見えにくい面をもつ獅子座の危うさとその可能性について、少し掘り下げてみたいと思います。

牡羊座から4番目の星座である蟹座では、「世界の完成」という役割がありました。そのために、蟹座は過去から受け継いだ営みのをひとつひとつを見出してはつながっていき、そこで出来上がったネットワーク(世間)へと、自らを溶け込ませていった(長いものに巻かれた)訳です。それは言い換えれば、「人はなんのために生きているんだろう?」という問いに、「水(つながり)」の観点から一定の答えを見つけること、逆にいえば世間と一体化するために自らを囲い込み、埋没させてしまうということでもありました。一方、「火」の星座(牡羊座、獅子座、射手座)というのは、どの星座であっても必ず、新しいエレメントサイクル(火→土→風→水)の「幕開け」を表しているものなんですが、5番目の獅子座というのは、まず先のような問いの問い方そのものに対して、違和感を覚えることからスタートします。

たとえば実際に「自分はなんのために生きているんだろう?」と問うとき、私たちは無意識に自らの生や、自分という存在を、外在的な目的連関の中に組み入れ、つい外側にあるナニかに使役されることに、存在理由や意味を持とうとしてしまう傾向があります。「社会の役に立つように」とか、「家族のために頑張って」といった、周囲からの期待や思いに疑いなく応えようとすると言ってもいいでしょう。そうした前提は蟹座では自明なものでしたが、獅子座においてそれは自らを怠惰と盲従へといざなう無感覚の囲いであり、もはや正常という名の狂気とさえ映るようになってきます。

このことは先の問いの主語を、「生命(いのち)」へと置き換えるとより分かりやすいかも知れません。つまり、“生”とか“存在”といった抽象的な言葉で話を曖昧にするまでもなく、現に「いのち」の火はここにこうして灯っていて、本来それ自体が輝かしく尊いことのはずなのに、なぜ純粋にそう感じることが許されないのか?あるいは、いつからこの身のうちの心臓は「血液のポンプ」だなんて、つまらない機能的名称に貶められてしまったのか?果たして狂っているのは自分なのか、そうでなければ社会の方こそが狂っているのではないか?これら根深い違和感は、蟹座的な馴れ合い社会にあっては真っ先に槍玉にあげられ、圧殺の対象となるでしょう。その意味で獅子座というのは蟹座的な“和”を乱す危険分子だと言えます。しかしそれでも、この小さなうなり声が根気強く反復され、やがて一つの咆哮として響きわたったとき、初めてそこで蟹座の水のくびき(臆病、感傷、美化、マンネリ、空虚感など)から解き放たれ、それらの囲いの外へと獅子の獅子性が現れ出てくるんですね。

様々な動物の伝統的な寓話や伝承を伝える『フィシオロゴス』によれば、獅子の子どもは死産で生まれてくると言います。そのため、親である獅子は子どもに3日間息を吹きかけるか、咆哮することによって生き返らせなければなりません。この眠れる獅子の子どもとは、テレビの前で無感覚になってぼんやり座っている私たちの姿であり、偽りの幻想を絶対視することによって弱体化し鼓動を止めてしまった心臓(こころ)の象徴であり、そうやってこころの中に砂漠を産み出していく負の拡大原理でもあります。そして、忘れてはならないのは、そうした親たる獅子によって取り戻され、内的世界の砂漠化に歯止めをかける心臓(こころ)の鼓動とは、所与のものとして自動的ないしワンタッチでスイッチが入るようなものでは決してなく、あくまで、煮えたぎる硫黄のように「咆えること=こころへ働きかけること」によってようやく目覚めるものであるということ。さらにその後も、芽生えたこころの火種が絶えてしまわぬよう注意深く守られ、「聖火」として定着するに至る一連のプロセスを要求するのだということです。つまり、獅子の獅子性は、まずどんなに些細でも何らかの覚醒を契機として持たなければ発露しないんですね。そういう意味では獅子座の「天真爛漫」とは、単に幼児期へと無邪気に退行している(無意識的)「状態」なのではなく、心臓(こころ)を飲みこみ眠らせたままにしようとする死んだ母胎(蟹座的馴れ合い)への必死の抵抗であり、そのための祈りにも似た(意識的)「行為」なのだと言えるでしょう。

■“子ども”とは何者なのか?

獅子座の獅子性(こころの鼓動=主体的な意志の発動)は、はじめは自分自身の父でもある獅子の咆哮であり、次に死んだ母胎より生き返った子どもとして現れ出てきました。さらに、その「子ども」という在りようには、単なる素朴な幼児退行とは一線を画す、なんらかの内的な葛藤の痕跡が見え隠れしている、というところまできた訳ですが、では、この“子ども”は結局何者なのでしょうか?

まず親としての獅子の視点から見える「子ども」とは、咆哮後も相変わらず存在する社会的な「自分」と重なりつつも、絶えずそうした自分を越え出ていこうとする「(どこにも所属していない)わたし」であり、王様(自我)の側につねに付き従う道化師ないし愚者のようなものだと言えます。『裸の王様』ではないですが、いつの時代のどんな社会であっても「形式のひとり歩き」や「内向きになる権力」という必然は避けられない流れの一つですが、閉塞して身動きがとれなくなってしまった状況に、一つの狂気的“乱れ”ないし“開け”をもたらすのが道化の担う役割であり、同時に、それは「<わたし>は必ずしも<社会的な自分>ではない」という遊びの余白の回復でもあります。いずれにせよ、こうした「狂気」と「遊び」の混合したイメージこそが、ここでは親から「子ども」へ投影されている性質なんですね。

白川静『字統』によれば、「<遊>とは水の流れのように、よどまず自在に動くこと」を意味しており、「本来宗教的な神霊の動き回ることに使われていた。したがって遊びとは<人間的なものを超える><神とともにある状態>であった」そうです。このよどまず流れる水のごとく、という「遊」のイメージは、神経症や精神病患者らが抱える、人間の本来的自然から疎外されている苦しみとしての「狂」と対照的なコントラストをなしていますが、これは両者をうまく統合することの難しさをよくよく物語っています。狂っているのか、遊んでいるのか、果たしてどちらが子どもの正体なのか。言ってしまえば、やはりそれはどちらでもあり、どちらでもありません。

「遊」を現実逃避とし、アルコールやドラッグの世界にのめり込み、あげく酩酊状態の中でみた幻想を大げさに口にするのも子ども(獅子座)であるすれば、逆にあまりに自らの“正気”を堅固に守ろうとして、柔軟性や創造性を著しく失った結果、魔をつうじて「狂」にいたりかねないのも子ども(獅子座)。親からの視点において、この2つの性質は常に子どもの中で微妙な緊張をはらみつつも溶け合っている訳ですが、これは視点を変えれば「吼える獅子=蟹座的なものへの必死の対抗=自分は強い意志の力を持っているという感覚」という発想の限界と、その先に開けている可能性を暗に指示しているのだとも言えます。

ここでいう限界とは何か。それは端的にいえば、意志を意志的に持つことはできない、ということに尽きます。たとえば、「誰を愛するか」ということについて、私たちは少なくとも自分の意志に関しては、いついかなる時も、自由に、己の意に沿う形で、好き勝手に発動し、人を愛せるかのように見えます。が、これもよくよく考えてみれば、特定の誰かのことを愛するという意志それ自体は、決して自分”の意志の力によって作られた訳ではないんです。もし仮にそんな「自分」や「主体」があるとすれば、それはあとあと捏造されたもの、背後から挿入されたものであって、本来はどんなに“強い”意志(これが既に幻想なのですが)であっても、それは結局「(自然に)湧き起こってくる意志」に他ならず、出来事は引き起こすものでもなければ、引き起こされるものでもない。それが愛であっても、殺人であったとしても、「ただ、起こるだけ」なんですね。(※「主語<私>は、述語<意志する>の前提である」と述べるのは事態の捏造であって、述語こそ主語の真理、ないし述語こそ空前絶後であるということ)

強く吼えさえすれば(or強いと認められさえすれば)なんとでもなるとどこかで錯覚していた獅子が、こうした<私>をめぐる誤った信仰から脱し、「ただ起こるだけ」という意志のとらえ方にいたった時、獅子座の「火」は、反蟹座的な、地下から噴出してくる「マグマ」から、背後や主体が取り払われれた、むき出しの世界を、あるがままに丸ごと肯定する「太陽」へと変貌を遂げます。それは、先程の「遊」と「狂」の2項対立を止揚する、第三の性質としての「」にまつわる一つのイメージであり、また咆哮する親獅子の投影から自由になった“子ども”の正体とも言えるものでしょう。

 

■“子ども”はどこへ向かい何をするのか?

「幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。」(ニーチェ『ツラトゥストラ』)
 
「然り」という聖なる発語のもと、「ただある」ことを受け入れ、遊と狂とが統合された境地を知るようになった「子ども」。承認欲求の渦や、死にかかった母なる幻想から自由になった彼は、一体どこへ向かいそこで何をしようとするのでしょうか?もちろん、その答えは「どこにもいかないし、何もしない」です。正確には、「いつかどこか」といった遠い目的地を設定し、そこにいく努力や達成によって自らの力を測り、意味とか根拠といったものを得ようとする真似は、もはや絶対にしないだろう、ということですね。

蟹座で過去に、そして獅子座の最初で親獅子が栄光ある未来へと飛ばした視線は、聖なる子ども(獅子座の到達点)においてはひるがえって<いまここ>へ戻ってきます。それは社会や他者に存在理由に預けたり、先の未来に楽しみを先延ばしにして、今ここに「ただある」自分を犠牲にするのではなく、むしろ動きはじめた心臓(こころ)の鼓動をビートにのせて、その周囲を遊園地化していくということでもあります。

そこで子どもは恋をし、踊り、種をまき、笑いあい、歌をつくり、料理をするでしょう。あるいは家畜を飼い、鉱物を拾い集めては研究し、やがて子どもも生まれ、本を読み、伝承を聞かせるでしょう。「いずれ」死にいたる軌跡をただ眺め、偽りの幻想の中で呆然と待つのをやめ、「いまここ」を太陽の光溢れるいのちの祭儀場にするでしょう。

それは不動の中心としての太陽を自らと同一化するということでもあり、ある意味、獅子座特有のどこか狂騒的な寛容さや、根源的な(根拠のない?)恐るべきオプティミズムの体現でもあると思います。こうして獅子座は、内部の反響(違和感)を増幅する「反逆児(自然児)」から、次第に硬直したこころに熱(士気)を吹き込む「道化師」となり、最後には自分だけでなく周囲の心臓(こころ)をも温かくする太陽のような「」そのものへと変貌を遂げてきました。そのいずれもが獅子座であり、それらの間を可逆的にいきつ戻りつすることもあるでしょう。ただ、それでも一貫して変わらないのは、彼らがたえず生きることへの「」を失わないということ。これはあの梁塵秘抄の歌のように、獅子座がまさに「遊ぶために生まれてきた」ということの一番の証しなのかも知れません。

 

獅子座のKeyword:
新しいエレメントサイクルの幕開け

「父なる王」ではなく「天真爛漫な子ども」
心臓(こころ)・砂漠・聖火・祈り
違和感・咆哮

遊と狂、そして聖
「私」をめぐる誤った信仰の超越・覚醒・「ただある」ということ
ありのままの現実を丸ごと肯定する力
「マグマ」から「太陽」へ

反逆児・自然児⇔道化師・愚者⇔太陽・不動の中心

狂騒的な寛容さ・恐るべきオプティミズム
いまここの遊園地化・いのちの祭儀場
どこにも行かないし、なにもしない
遊ぶために生まれてきた

 

 

sugerSugar(シュガー)
1983年7月31日生。慶應義塾大学哲学科卒業後、ベンチャー企業の営業職を経て、より多くの人に占星術の面白さを伝えるべく、占い師の道へ。現在、対面鑑定・講座・執筆などを中心に活動中。男性占い師ユニットNOT FOR SALEメンバー。

 

WEB Site “astro-ragus”  http://astro-ragus.com/